SUMMICRONへの愛を語る2




この記事はsummicronへの愛を語るの続きです。「summicronへの愛を語る1」はこちらへどうぞ。

苦悩

summicronを購入したは良いが、苦悩の日々は続いた。自分は本当にこの人に見合う人なのか?本当に共に歩んでも恥ずかしくない人間なのか?恋愛でも同じである。つまりマニュアルフォーカスに慣れていなかったのだ。

皆さんはご存じの通り、最近のレンズの主流はオートフォーカスである。つまりシャッターを半押しすると自動でピントが合う。ただしleicaのMマウントは新しいものであってもマニュアルフォーカスだったと記憶している。半押しという概念は無く、レンズを支える左手でピントリング(フォーカスリング)を回し適正なピントに合わせる。leicaはレンジファインダーであるので、ファインダーの像が重なるポイントを探すのだ。

ただこれは文字で書くと簡単だが、動くものにピントを合わせるのは大変難しい。景色などは比較的ピントは合わせられるのだが、動き回る子供は不可能に近かった。

我慢

私はそれでもsummicronを愛そうとした。leicaを常に持ち歩き写真を撮りまくった。恋愛でも同じである。自分の愛した彼女との愛を確認するために必要以上に頑張ったのだ。

もちろん自分のスキルは上達した。何十枚かに一枚だがハッとする写真が取れるようになった。その一瞬のために釣り合わないレンズに向き合いまくった。そしてついにその瞬間が訪れた。

別れ

そう。Sonyのミラーレスとの出会いである。知り合いのカメラを借り試し撮りをした所、衝撃が走った。こんなに撮影とは自由なものだったんだと。恋愛でも同じである。普段の自分をさらけ出すことできない相手とは気疲れしてしまい、付き合いを続けていく事は難しい。

という事で、私の心はSony α7Ⅲに移ってしまった。とにかく撮影に集中できる。何も考えずにシャッターを押すと綺麗な写真が出来上がる。中でも瞳オートフォーカスは自分の概念の外に位置していた存在で、全力でぶん殴られたくらいの衝撃であった。

ただα7Ⅲはミラーレスである為、leicaのMマウントのアダプタが存在している。そんな所も自分を後押しし、ついにα7Ⅲに手を出してしまった。

自由

そう、私は自由である。マニュアルフォーカスの呪縛から解き放たれた私はシャッターを切りまくった。「数打ちゃ当たる」とはよく言ったもので、アマチュアの私でも大漁の写真の中に、そこそこの写真が散見されていた。そして私はsummicronを触る事はほとんどなかった。恋愛でも同じである。新しい出会いや辛い出来事の後は、新たな楽しみや喜びが通常以上に見つかる。そう、過去の喜びを打ち消すように。

実際α7シリーズは素晴らしい。優れた性能で自分の表現を格上げしてくれる。ここでは若干否定的な表現だが、私は今でもα7RⅣをメイン機で愛用している。

後悔

私は大漁の写真を生産していった。そう言い間違いではない。「生産」していった。

ある時妻に尋ねた。今までの子供の写真の中でお気に入りの写真を教えて欲しいと。もちろん何枚も出てきた。次々とスマホをスワイプしていく中、ある事に気付いた。

8割はsummicronで撮影した写真だったのだ。

恋愛も同じである。別れた後、ジワジワと思い出す楽しかった日々。私はすぐさま埃の被ったsummicronを見つけ出し、後悔と謝罪の念を込めて埃を拭いα7Ⅲに装着し町に出た。

幸福の先にある何か

私は今、α7RⅣがメイン機である。子供の撮影はもちろんSony製のレンズがほとんどだ。ただし今までと違う所は常にsummicronを鞄に忍ばせているという事。恋愛と同じである。

いや、今回は恋愛とは違う。

わたしはsummicronを愛しているのだ。ただ彼女には苦手な事も沢山ある。だからそれを補う為にα7RⅣとSonyのレンズがいる。普段の走り回る子供はα7RⅣでオートフォーカスを使い撮影した方が綺麗に写真が撮れる。ただ、動きの止まった記念撮影はsummicronで私でも綺麗に撮影する事ができる。

そう2人の良い所を愛そうと決めたのだ。

それ以来私はSonyとleicaを一緒に持ち歩いている。両方共大事な愛機だ。そして多数の写真を撮影してきた。

ただSummicronで撮影した写真の方が好きな事が多い。

それはSony製レンズには秘密である。